【第1回】米農家になった経緯

目次

自己紹介

みなさんはじめまして、はるさめと言います。現在32歳で家族4人で福井県鯖江市で暮らしています。

職業は診療放射線技師という主にレントゲンやCTなどの病院で画像検査をする仕事です。

一方で私は米農家という肩書きも持っています。

母親の実家の養子になったという経緯があり、そのため休日はコシヒカリ、ハナエチゼン、いちほまれなど様々な品種の米を作っています。

また、家業を引き継ぐにあたって一族の資産運用も任されているため、いち個人投資家としても活動しており、ファイナンシャルプランナー2級の資格も保有しています。

中学生で苗字が変わる

ここまでになった経緯としては小学生時代まで戻ります。

そらは父親からの突然の一言でした。

父親
お前、中学上がったら苗字変わるでなぁ

はるさめ
なにそれ、かっこいい

苗字が変わることになんの違和感も覚えず、そのままスッと受け入れた自分。

今思えばこのような時期に告げられるのが一番良かったのではと思っています。

私自身中学校に上がる際には地元の公立中学には行かずに、野球をするために福井市の私立中学に進学しました。

この当時から人と異なる選択をすることがかっこいいと思っていましたから、いい意味で馬鹿だったなぁと思います(笑)

当時まだ着信音が着メロと呼ばれていた時代に携帯をもち、片道13kmの通学路をママチャリで3年間爆走しておりました。

この経験のおかげで精神力が異常なまでに鍛えられ、精神的なストレスを抱えることは無くなりました。

いわゆる脳筋(のうみそまで筋肉)ってやつになったわけです。

高校では少し農業を教わる

中学でちょっとした不祥事をおこし、監督からのお叱りの言葉にちょっとむかついた自分はそこで野球を辞めちゃいました。

高校では心機一転して帰宅部のエースとして活躍しました。

また、熱中したらとまらないという性格が功を奏し(?)、学校が終わって即帰宅したらアニメを1日8時間みるという生活をしていました。

ただその中で、少し田んぼの仕事を手伝わされるようになり、このとき少しだけ農家を継いだんだなということを感じさせられました。

ただその仕事が本当につらいのなんの。溝切り作業といって重さ20kgちかくある機械をもって底なし沼状態の田んぼの中に入って押して歩くという地獄のような作業です。

6月の梅雨頃に行うため、めちゃめちゃ暑く足もとられるは、ヒルに噛まれて血が出るわ散々な目に遭います。

嫌気がさし大学は県外へ

そんな生活を送っているとやっぱり農業のことを嫌いになってしまい、大学くらいは県外に出たいという気持ちを抱きますよね。

幸い、奇跡的に石川県の大学に入学することができ4年間を金沢市で生活することになります。

夢にまで見た一人暮らし生活。しかし20歳になった時にそれは突然訪れました。

祖父、突然の死、農家をつぐ

もともと食道がんの診断で放射線治療と化学療法を行なって余命1年の宣告を受けていた祖父だったのですが、治療開始の5日目で急逝してしまったのです。

なんとなく来年くらいに後継としてやっていかなきゃいけないんだなぁと感じてはいましたが、急すぎました。

養子である以上しなければならないこと、そうです喪主として葬儀を開くことです。20歳の若造がやるには無知すぎました。

私の住む町内は古い集落のため村独自のしきたりみたいなものが存在します。

村のしきたり
  • 喪主は両隣4軒の家にお手伝いを依頼しなければならない
  • 依頼された家は手分けして町内の全ての世帯に葬儀の案内を配布しなければならない
  • 依頼された家は葬儀時に受付をしなければならない
  • 喪主は初七日、四十九日、一周忌に必ず両隣4軒の家に料理を振る舞わなければならない

まずは隣の人にお願いに回ったら、葬儀屋さんやお寺さんに連絡し、葬儀屋と葬儀の段取りについて話し合いをします。

祭壇のクラス、遺影の選定、棺のランク、食事のランクetc、、、もろもろぜーんぶ自分で決めなければなりませんでした。

正直忙しくて祖父が亡くなったことを忘れそうになるくらいです。まぁ葬式にはそういった意味も含んでいるそうなのですが。

なんやらかんやらで葬儀は無事に終了し、いい経験になりました。おそらく20歳で全部を経験できる人はなかなかいないでしょう。

大学卒業後、本格的に農業をする

低空飛行な成績でしたがなんとか大学を卒業し、無事に診療放射線技師の資格も取得することができました。

就職先は家から一番近い比較的規模の小さな病院でした。

就職の面接の際にも、米農家をやってるので家から近い病院を選びました!と堂々と言い放ち、面接官を驚かせてしまいました。つまり近けりゃどこでもいいって意味でしたからね。

農業自体はこのころ地域の生産組合に加入して集団で行うようになります。

生産組合の仕組みとしては各世帯が出資したお金で共同利用できる農機具を購入し、全員で米作りに取り組むというものです。

この仕組みによってサラリーマンをしている人でも分担しながら休日に農業をすることで米作りができるようになりました。

結婚、そしてマイホーム

就職してから2年ほど経ってから結婚をしました。

ただ始まったのは80歳過ぎの養子の母との同居生活。長続きはするはずもありません。

捨てたはずのゴミが家の中に戻ってきたりと、20代の夫婦と戦争を経験した80代の老婆と価値観が合うはずがありません。

早々に家を飛び出し、賃貸に済んだ後はしばらくしてマイホームを購入することになりました。

正直、離婚しないためにはマイホームが必要っていう感じで購入したため、一般的な念願のマイホームって感じではなかったです。

ただ、今思い返してみると、この家の購入が私を投資家にするきっかけになりました。

お金に興味を持ち始めたのは住宅ローン控除から

マイホームを購入するには普通ローンを組みます。当然我が家もローンを組みます。

そうすると年末には必ず住宅ローン控除の申請をしなければなりません。

 

会社員の場合は初回のみであとは年末調整で良いのですが、副業をしている人はどちらにせよ確定申告の必要があります。

普段は農業の確定申告は農協の職員にサポートしてもらって行っていましたが、今回は自分で取り組んでみようと思い行動を起こしました。

自分で初めて確定申告の用紙に向き合うこと約2日。

2晩の徹夜で1年分のレシートを仕分け簡易的な帳簿を作成し白色申告用紙に必要事項を記入しました。

そして確定申告用紙を提出した年の6月からの出来事でした。

住民税 24,000円/月 → 2,000円/月   △22,000円

保育料 35,000円/月 → 20,000/月  △15,000円

年間の計算で合計約44万円が浮いてしまったのです。

仕事の基本給の昇給でここまで上がるのにはもっと何年もかかってしまうのに、ちゃんと経費を計上するだけで簡単に稼ぐことができてしまうのです。

支出を減らすこと収入を増やすことは同義ですが後者のほうが難しいのは明らかですよね。

自分にとってこの経験が今後の人生に大きく影響を与えてくれたと思っています。

農業を前向きにとらえる

今まで支払うことが当たり前だと思っていた税金は制度や経費を利用することで安くすることができると学びました。

この経験を経てからは今まで嫌だなぁと思っていた農業に対する見方が変わってきました。

自分の運命を前向きに受け入れる姿勢ができたということです。

節税によってこうして節約できた税金分を投資に回しさらに金の成る木も育てています

旅行が趣味なので投資で得たお金を使って行く旅行は本当に心が豊かになります。

元となるお金が全く減っていませんからね。

ちょっとした知識をつけて行動するだけで自分の運命は大きく変えることができると確信しています。

そしてそれをなるべく多くの人に知ってもらいたいと思っています。

これからコツコツと更新していく次第ですのでどうかよろしくお願いします。

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